特別推進研究


研究目的

遷移金属元素や高周期へテロ元素を含む分子や分子集団は、構造や物性、反応性が多様性に富み、基礎および応用化学双方で重要な研究対象となり、大きな興味がもたれている。これは、遷移金属のd-d軌道エネルギーギャップが小さいため、多様なスピン状態や酸化状態を取ることが可能であることが一つの理由である。また、高周期へテロ元素は超原子価状態を取りえる。これらが、有機官能基のs, p電子系や典型金属の空軌道やδ+電荷と互いに相互作用し合うことにより複雑な電子系となり、しかも、共存する置換基、官能基などにより様々に変化できる柔らかい電子状態を取りえるためである。この結果、遷移金属元素や高周期へテロ元素を含む複合電子系は多様な構造と結合性、物性、反応性を示すことが可能となり、理論化学・分子科学分野で挑戦的な研究対象となっている。しかし、それらの多様で複雑な電子状態や構造のため、その理論的研究は第2周期典型元素からなる分子、分子集団に比べて圧倒的に困難である。

従来の理論的研究を振り返ってみよう。遷移金属元素を含む複合系の理論的研究では、これまで、系が大きいことから、配位子や官能基を単純化したモデル系の理論的研究や密度汎関数理論(DFT)によるものがほとんどである。諸熊らのONIOM法は大きな分子の理論計算に用いられているが、周辺の置換基や官能基の電子的効果は中心の高精度計算部分に直接取り込めないと言う欠陥がある。また、DFT法はvan der Waals相互作用や遷移金属とπ共役系の相互作用を過小評価し、金属間多重結合を正しく記述できないなどの本質的な欠点がある。遷移金属元素を含む系は分極している場合が多く、溶液内反応では溶媒効果を正しく見積もる必要が有るが、現在の連続誘電体理論(PCM法)では溶媒効果の詳細(例えば動径分布関数)を明らかには出来ない。従って、遷移金属元素を含む分子および複合系について、周囲の環境を考慮した高精度計算を可能とする理論的計算法の開発が不可欠である。

fig1
図1:大規模系のための高精度計算法

榊らによる特定領域研究「実在系の分子理論」(領域代表;榊 茂好)において、これらの理論化学における弱点を克服してきた(図1参照)。例えば、置換基の電子的効果を取り込むモデルポテンシャル法を開発し、高精度電子状態計算であるCCSD(T)法を実在系に適用可能な途を開いた。この方法は化学的精度で反応熱を与えることが可能であり、置換基の電子的効果を系統的に変化させ、立体反発と独立に評価することを可能とした。また、溶媒効果もRISM-SCF法により高精度に取り込むことに成功した。従って、理論計算による分子設計、反応制御が極めて容易となった。永瀬らは、別の方向から電子相関を効率よく取り込むための手法の開発を行なっており、これまでにない大きな系でのMøller-Plessetの2次摂動計算を可能とした。江原らは、SAC-CI法の大規模化について研究を行なっており、分割的にクラスター展開することにより、大規模系への応用を可能とするアイデアを出している。

それらの方法は非常にすぐれており、今後の応用が期待される。しかし、未だ広範囲な適用には不十分であり、一般の容易な使用が可能な形となっていない。本研究では、これらの方法をさらに発展させ、一般的使用を可能とするとともに、それらを融合し、これまでにない大規模な系に対して、これまでにない高精度電子状態計算を実行可能とする理論的計算法を開発すること、そして、その方法により、非古典的な結合や構造が期待される遷移金属元素や高周期へテロ元素を含む複合電子系化合物の構造、物性、反応性を微視的に、すなわち電子レベルで解明し、それらの理論的な予測を目的とする。

具体的には、(1) ハイブリッド型高精度大規模電子状態理論計算法の開発、(2) 複雑な電子状態を有する多核金属錯体の構造と結合性、電子状態の解明、(3)遷移金属元素や高周期元素、典型金属元素、有機官能基を持つ複合電子系の物性と反応の微視的解明と制御、(4) ヘテロ元素や遷移金属元素を含むナノカーボン化合物の構造と機能、電子状態の理論的解明、(5) 遷移金属元素および高周期へテロ元素を含む複合系の励起状態の構造と電子状態の理論的解明を行なう。

以下、各項目を説明する。

(1) ハイブリッド型高精度大規模電子状態理論計算法の開発

(1-1)置換基に対する有効ポテンシャル法の開発: 榊らは官能基、置換基の電子的効果を取り込む有効ポテンシャル法を開発してきたが、これまではσ電子系のモデル化に成功したのみであった。この有効ポテンシャル法をπ電子系に拡張する。この方法により、リアルな官能基、置換基の原子価軌道のエネルギーと広がりを簡単なモデルで再現し、中心部分の高精度電子状態理論計算に電子的効果を反映させることが可能となる。また、金属表面に吸着した化学種の励起状態のSAC-CIなどの高精度計算はスラブモデルでは不可能であり、クラスターモデルを採用せざるを得ない。しかし、クラスターモデルでは周辺効果により金属表面の効果が正しく取り込むことが出来ない。榊らの有効ポテンシャル法は金属表面にも適用可能である。金属表面用の有効ポテンシャルを開発し、金属表面の高精度モデル化を行い、表面吸着種の励起状態の高精度理論を可能とする

(1-2) 高精度電子状態理論のハイブリッド化:励起状態を正しく研究することは電子状態理論の古くからの課題であるが、大規模系については、いまだ、十分なレベルに到達していない。最も大きな課題は励起状態ポテンシャル面の高精度計算である。本研究では励起状態を高精度で記述することの可能なSAC-CI法を中心部分とし、周辺部分の電子的効果は有効ポテンシャルで、静電効果はFMO法で取り込むハイブリッド計算法を開発する。この方法で、大規模分子の励起スペクトルの計算のみならず、励起状態の構造最適化を行なうことが可能となる。

(1-3) 以上の方法をGammesGaussian09などの汎用プログラムに組み込む。これらの方法をGammesやGaussian09などの汎用プログラムに組み込み、一般の使用に供する。

(2)複雑な電子状態を有する多核金属錯体の構造と結合性、電子状態の解明

(2-1)金属多重結合を持つ多核錯体の構造と電子状態の解明:

 金属多重結合の化学的精度での高精度計算はいまだ不可能である。また、その結合性の本質の理解もCAS-SCF法による結合次数による議論やルーテイーン的なNatural Orbital Analysisが行なわれているにすぎない。結合の本質解明は容易でないが、本研究では、FragementのNatural Orbitalで全系のNatural Orbitalを展開し、occupation数と合わせて、σ-, π-, δ-結合性の寄与を評価し、金属のd軌道の広がり、d, s, p軌道エネルギーとの関連を明らかにする。この解析により、第一、第二、第三遷移周期元素の多重結合の特徴を遷移金属元素の性質、例えば、d軌道の広がりとd電子数、d, s, p軌道エネルギ-差などから解明する。

(2-2)高周期へテロ元素の多重結合を含む複雑系の構造、結合性、電子状態の解明:

 ケイ素やゲルマニウムなどの多重結合の電子状態、結合性は実験化学、理論化学双方で興味深い研究対象である。これまで、これらの多重結合の理論的研究は永瀬らにより精力的に進められてきた。しかし、π-アリル、π-プロパルギル、シクロブタジエニルのケイ素置換体などの共役化合物の電子状態、結合性は、ほとんど検討されていない。ここでは、これらの化学種の結合性と電子状態を明らかとし、炭素化学種との比較を通して、特徴を明らかにする。

(3)遷移金属元素を含む複合系の構造と結合性の理論的研究

遷移金属元素のd軌道と高周期へテロ元素のhypervalencyが相互作用することにより、従来に無い非古典的な結合と構造が実現すると考えられる。これらは金属のd電子系と高周期へテロ元素の超原子価が相互作用しあうことにより多様な構造と結合性を持ちフレキシブルな挙動を示す分子である。実際、我々はこれまで予備的な研究によりいくつかの非古典的構造と結合性を電子状態理論計算から明らかにしてきた。本研究では、それらの新しい結合性を解明し、フレキシブルな挙動における超原子価の果たす役割、動的挙動におけるトンネル効果の寄与を明らかにする。

(3-1)遷移金属元素と高周期元素の単結合および多重結合の結合論: 遷移金属とシリル、ゲルミルなどとの単結合、シリレン、ゲルミレンなどの二重結合、シリリン、ゲルミリンなどの三重結合の理論的研究をCAS-PT2法もしくはMR-MP2法で行い、電子相関効果が単結合と多重結合でどのように異なるのか、静的相関が大きいのか、小さいのか、実質的な結合次数はどの程度なのか、などの遷移金属と高周期へテロ元素間の多重結合について結合論の基本的な知見を明らかにする。

(3-2) 遷移金属元素と高周期へテロ元素π共役系の結合論: 高周期へテロ元素のπ共役系化学種、例えば、π-シラアリル、π-シラプロパルギルの遷移金属錯体は非古典的結合を持つことを明らかにし、また、それらの錯体の単離を理論的に予測してきた。最近、シクロブタジエンのケイ素類似体やシラベンゼンの遷移金属錯体が単離された。本研究では、それらの結合性と構造を電子レベルで検討する。非古典的な結合論が必要なのか、古典的な結合論で理解可能なのか、もし、非古典的な結合なら、どのように理解すれば良いのか、明らかにする。方法としてはDFT法でなく、多配置性の存在の可能性を考慮してCASPT2法を用いる。

 これまでに報告された化学種だけでなく、存在の可能性が期待される化学種、例えば、シクロペンタジエンの全ケイ素類似体、π-アリルの全ケイ素類似体などの金属錯体の結合性と安定性を理論的に評価し、単離、合成の予測を行なう。

(4) 高周期へテロ元素や遷移金属元素を含むナノカーボン化合物の構造と機能の電子状態との関連の理論的解明

フラーレンやカーボンナノチューブは新しい電子状態や機能を発現することが期待され、活発に研究されている。しかし、それらの電子状態に基づく理解と予測はほとんど為されていない。本研究で開発するハイブリッド高精度大規模電子状態理論は、それらのナノカーボン化合物の理論的研究を可能とする。ここでは、高周期ヘテロ元素や遷移金属元素を導入したナノカーボン化合物の構造と機能がどのようなものであるか、また、それが電子状態からどのように理解できるのか、を理論的研究から解明する。

(5) 遷移金属錯体による触媒反応の理論的研究と予測

遷移金属錯体による触媒反応は精密有機合成や工業反応として重要な位置を占めている。しかし、触媒作用の本質、触媒サイクルの分子論的理解はほとんどの場合、不十分である。例えば、最近、有機合成分野で重要な反応となっているクロスカップリング反応において、なぜ、パラジウムが有効な触媒となっているのか、と言う質問に対する理論化学からの回答は、我々が最近ようやく示すことが出来た。

本研究では、これまでに反応機構や反応経路が明らかでなく、理論的な検討もなされていない園頭カップリング、玉尾-熊田カップリング反応、ランタンなどのランタナイド金属による官能基導入エチレン重合反応、ルテニウム、ロジウム錯体触媒による二酸化炭素固定化反応の触媒サイクルを理論的に解明し、中心金属の触媒作用メカニズムを分子論的に明らかにする。特に、園頭カップリング、玉尾-熊田カップリングではパラジウムと有機銅(I)あるいはニッケル(II)とグリニャール試薬とのトランスメタル化(有機官能基がある金属から別の金属へ移動する反応)が含まれているが、その遷移状態はビラジカル性があるか、無いのか、など電子状態の観点から興味深い。それらを解明する。

さらに、園頭カップリングや鈴木-宮浦カップリングなどでは、パラジウムに代わる第一遷移周期元素、例えば、ニッケル、銅などによる代替触媒の可能性を検討し、理論的予測を試みる。

玉尾-熊田カップリングではニッケル錯体を触媒に使用しているが、効率を向上するための反応剤の予測と反応制御を理論的に検討する。

また、CO2の水素化反応では、ルテニウム、ロジウムが現在主な触媒として使用されているが、鉄やコバルトの触媒としての可能性を検討する。水素化以外のCO2固定化以外の反応、例えば、CO2とオレフィン、アセチレンのカップリング反応などについて、従来使用されている白金、パラジウムなどに代わる触媒探索も行なう。

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